「遺憾の意を表明します」
この言葉を良い意味でとらえる人は少ないでしょう。
何か問題があった時に、代表者や責任者が発する言葉であり、これによって事態が好転するイメージがないからです。
では、なぜこういった言い回しになるのでしょう。
「ふざけるな、今すぐやめて賠償しろ」と言わないのは何故でしょうか。
これには日本人が持つ気質が絡んでいるのだと考えています。
この記事ではその内容をまとめました。
ちなみに私は文化人類学者でもなければ日本語の専門家でもありません。
一市民が思いついてまとめただけの、一つの意見です。
察しと思いやり
海外の人に比べて日本人は口下手であり、やたらと謝ってくるという評判を聞いた事はありませんか?
その統計を取ったわけではないので信憑性はいかほどか?といった説ですが、あながち間違いではないのではないかというのは経験則から分かります。
外国人、とくに中国人の方などと仕事をしていると、物おじせず、さらに誤魔化すことなく直接的な表現で意思を伝えてきますよね。
恐らくこれは、日本人が異常なまでに相手の気持ちを察することを重視しているために起こるギャップだと思います。
「言わなくても分かるだろ、察しろよ」
こういった言葉を良い意味でも悪い意味でも使います。
要するに、相手(自分)の気持ちを察して自発的に判断して行動しろという文化です。
そんな文化あるのかって?しらん。
相手の気持ちを思いやれる(察せられる)人になりましょう、という教育を小学校や幼稚園でされると思います。
実際、普段の生活でも無意識にやっている人が多いと思います。
そんなことないって?
「ここで意見を言ったら相手を不快にさせるかも、変だと思われるかも」と思って授業や仕事で意見を言わないケースがそれですよ。
「自分の言ったことで相手が不快に思ったかな」と思って謝ってしまうのも同じです。
「遺憾の意を表明」することは相手に期待をするということ
逆に言えば、察しと思いやりは「こう言えば相手はこう思ってくれるに違いない」という思い込みがあることにつながります。
「相手が喜ぶであろうことをしてあげれば当然感謝の気持ちを持ってくれるだろう」
「相手から被害を受けて不快だという意思を表示さえすれば反省してくれるだろう」
という楽観的な推測です。
ちなみに、この期待を過度にする人が「こんなにしてあげたのに! あなたのためを思ってのことなのに!」と怒り出すのです。
別のケースを挙げるとするなら「誰も遊びに誘ってくれない! あいつらは冷たい!」と自分からは誘わないのに怒る人ですかね。
閑話休題
代表者や責任者の自分が遺憾の意を表明したということは、当然相手は事態の深刻さを察して反省し改善してくれるだろう。
これが遺憾の意を表明するときの心理です。
わざわざ強い言葉で直接的に言及しなくても、絶対に伝わるはずだという期待です。
ちなみに、そんな淡い期待が叶うことはめったにありません。
期待をするから失望するのであって、裏切られたと感じるのです。
嫌だと言ったらやめてくれるはずだと思い込む子供と同じですね。
だから遺憾の意を表明するだけでは事態は解決しませんし、それを言うだけの人に対する信頼も無くなっていくのです。
まとめ
しかし、本質的には「遺憾のry」を使う人を責め立てる私たちも同じことをしているのです。
「はっきり言ってやれ」と声高に叫ぶ人に限って、自分でそれをやらないのです。
「それがお前の仕事だろ」と喚きたて逃げることで、自分で出来ないことをしてもらうのを期待するのです。
本当に望んでいるなら自分でやればいいのです。
ちなみにこんな人、会社にいませんか?
自分では何もしないけど改善を要求することを自分の仕事だと勘違いしている人。
そういって責めるだけ責めることで何か改善するのですか?
責めれば、その人が有能な人に早変わりするのですか?
じゃあどうしたらいいのかは分かりませんが、少なくとも責めるだけでは「遺憾のry」と同じで事態は好転しません。
はっきりと物事を言うのも大切ですが、それが常に正解であるとは限りませんよね。
相手の心証を悪くしてしまえば、纏まる話も纏まらなくなります。
その匙加減は非常に難しく、私もうまくできるなんて全く思いません。
その点でいえば、遺憾の意を表明することは、意思表示におけるジャブ、というかウォーミングアップとしては最適なのかもしれません。
問題はそのあとのアクションなのです。
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