正論って振りかざすと心地いいですよね。
正論はいつも正しい。
理屈で考えれば、筋の通ったことをするのが当然だという考え方はあるとは思います。
それが厄介になるのが、正論が正しいと感じるあまり、すべてにおいて理屈の通ったことしか認めないと喚きたてる人間が身近になった時です。
この記事では、理屈をタテに正論でぶん殴ってくる厄介な人について、個人的な考察をしていきます。
理屈の通ったことは正しいが好まるとは限らない。
突然ですが、経済学と行動経済学の違いはご存じでしょうか。
もともと経済学とは、想定する人々は理屈にかなった行動をするという前提で成立した学問でした。
つまり、品質が同じで価格が安いのであれば、すべての人間はその製品を買いに行くはずだという想定です。
しかし実際には様々な要因で人間の行動は左右されます。
例えば、割高でも近くてすぐに手に入るからコンビニで買い物をする。
例えば、近くに安くて品揃えのいいスーパーがあるけど、店員が気に入らないからよそへ行く。
例えば、梅雨時は雨で出歩きにくいから高くても近場の店に行く。
等が挙げられます。
その時々の気分や体調、周囲の状況により人間は行動様式を変えるのです。
その結果出来上がった新しい学問が行動経済学です。
つまり人間も動物の一種であり、動物に一貫した行動を求められないのと同じ理屈ですね。
正論、つまり論理的かつ客観的に見れば理に適った行いというのは存在します。
代表例が、省エネ製品ですね。
多少割高で家計を圧迫しても、将来のことを考えれば消費エネルギーは少ない方が良いはずです。
自分の子供や将来生まれてくる人類、自然環境のことを考えれば自分が多少困窮してでも環境保全に取り組むべきです。
しかし、実際にはその正論を律儀に実行する人は多くありません。
それは、正論の中に最も重要な「主観」が存在しないからです。
それでも何故正論を振りかざす人がいるのか。
私が今まで出会ってきた正論を武器にする人の特徴は、
「自分が当事者ではない」
という立場に身を置いている人でした。
端的に言えば、自分でやるのはご免被るが、他人にはやらせたい。
そのための強固な理由として理屈を使っているのです。
さらに、自分の立場を相手より上だという空気を作ることでさらに発言力を高めます。
例えば、店員に過剰なサービスを要求する人は「店員なんだから」と前置いたうえで「客の満足度を上げるため」という理屈を使い要求を押し通そうとします。
正論ですね。
充実したサービスは顧客満足度を上げて売り上げ増加に寄与します。
しかし、そこには店員の主観が含まれていません。
この場合の客は、店員にとっては忙しい中で面倒なことを言い出し、全体の作業能率が落ちる害悪でしかありません。
反発を生み、サービスをしようとは思わなくなるでしょう。
要するに、正論を言う人は言われた側の主観を無視しているということです。
もし自分が店員の立場になっても積極的に自分が言ったことをできるのであれば単なる「すごい人」で済むのですが、そうであることを証明する方法は多くありません。
むしろ身近な人が正論を武器にしている場合は、その人が口だけであると分かる機会が多いでしょう。
要するに、うまく安全圏に離脱して離れたところから口ばかり出す雑音スピーカーということになります。
騒ぎ立てることしかできない一部のマスコミみたいなものです。
まとめ
だから何だという記事ですが、小学生のように「友達100人」作るのは多くの人にとって大した価値を持ちません。
正論を武器にする人が鬱陶しいのであれば、近づかないことです。
それでもやむを得ず接しなければならない場合、例えば職場の上司がそうだった場合、何とかして当事者という立場に引き込みましょう。
自分が無茶言ってきたことをやり遂げるようでしたら、その人は大したものです。
しかし、そうでないケースの方が多いと思います。
少なくとも私の周りの人はそうでした。
さんざん喚いてきたのに、いざ自分がやるようになると口を閉ざすのです。
このやり方は根本的な解決にはなりませんが、少なくとも黙らせることは可能です。
逆に、自分がそういう正論を武器にするような人にならないように注意が必要です。
正論というのは使う側には心地よいものですが、使われた側は得てして反発心を生じるものです。
自分の気持ちを完全に無視して正しさを押し付けられるわけですから。
多くの人は正しくないことをしようとは思いませんが、正しいからと言って何でもしようとは思いません。
それを忘れずにいたいものです。
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