SFの金字塔であり、国内での架空戦記の元祖とも呼べる
戦国自衛隊
小説作家の半村良により1971に発表され、後年に渡って幾度となく派生作品が生まれました。
この記事では、原作小説の「戦国自衛隊」と、
原作を基に製作された1979製作の映画「戦国自衛隊」について、
その違いと感想を述べていきます。
概要
半村良が執筆した原作「戦国自衛隊」は、現代火器で武装した自衛隊が戦国時代に現れたらどうなるのかという疑問を基に製作されたSF架空戦記小説です。
日本全国で同時に実施されていた大規模演習の際に、補給基地にいた陸自一個小隊(約30名)が、物資や装備と共に1561年頃の戦国時代にタイムスリップしてしまうところから物語が始まります。
戦国時代にたどり着いた隊員たちは、出現地点を領内とする長尾景虎(上杉謙信)と出会い、現代火器と戦略を駆使して天下統一を狙うというストーリーです。
小説を原作とした映画版は、主演を務める千葉真一の芸歴20周年を記念して製作された映画です。
原作同様に、現代火器で武装した自衛官たちが戦国時代にタイムスリップし、そこで天下を目指すというストーリーなのですが、原作に比べて人間ドラマに重きを置いています。
ちなみに小説も映画も1970年代に発表されていますので、登場する装備類は今から見れば旧式の物ばかりです。
ストーリー
原作小説
戦国時代にタイムスリップした小隊の中で最上級者(三尉=少尉)である「伊庭義明」は、現地の武将である長尾景虎と友好的な関係を築きます。
しかし、情勢を深く知るたびに、今いる世界は自分たちの知っている歴史とは異なる流れを辿ってきたことを知ります。
織田家や松平家が存在しないなどの細かな違いがあるものの、大まかな流れは伊庭たちの時代と一緒という、奇妙な違和感のある世界だったのです。
当初はタイムスリップという非現実的な現象を受け入れられなかった自衛官たちですが、時間が経つにつれて戦国時代に適応していきます。
やがて自衛官たちは天下統一を目標として行動を始めます。
これは、昭和に帰還することを諦めたわけではなく、歴史のあらましを知っている自分たちが過去に過度に干渉することで「時」が自分たちを昭和の時代に戻すのではないかという推測に基づいた行動です。
現代火器で武装した自衛隊たちは向かうところ敵なしの戦果を挙げ、日本中に「時衆」として知られるようになります。
しかし、いかに大量の物資と共にタイムスリップしたとはいえ、補給ができない以上は弾薬や燃料は枯渇していきます。
また敵対勢力も現代装備に対する対策をしており、武田信玄戦では戦いに勝利したものの、大きな被害を出してしまいます。
結果として主だった敵を蹴散らし、あとは京都(帝)を制圧して日本統一をするのみというところまでこぎつけます。
ただ、ここまで歴史に干渉しているにもかかわらず、自分たちは未だに昭和に戻ることもできず、「時」に排除されることもないことを、伊庭三尉は疑問に思います。
終盤、ほぼ全ての現代装備を使い切り、64式小銃とわずかな弾薬だけを持った状況で京都の妙蓮寺に伊庭たちは宿泊していました。
そこに謀反を起こした細川義孝の軍勢が襲撃してきます。
細川藤孝は、伊庭たちを脅威と見做した帝から、自衛隊の抹殺を命令されていたのです。
隊員たちは果敢に小銃で応戦しますが、細川の部隊は2,000人を超える勢力です。
やがて寺に火の手が回り、燃え盛る炎の中で自分の死を覚悟した伊庭は、自らの喉に短刀を刺し自害します。
意識を失う瞬間、自分たちがタイムスリップした意味を悟ります。
この世界は本来あるべき歴史(伊庭たちの世界と同じ歴史)とは異なる歴史を歩もうとしていました。
しかし、「時」により呼び寄せられた伊庭たち自衛官の行動によって、その差異を修正してしまっていたのです。
燃え盛る妙蓮寺は本能寺であり、伊庭は信長の代役を演じてしまっていたのです。
昭和に戻るために歴史に干渉していましたが、その行為こそが「時」の狙いで、見事に求められた役割を果たしてしまったのです。
映画
同様にタイムスリップした伊庭たち自衛官たちですが、黒田勢の武士から弓矢による襲撃を受けます。
それに対して、隊員の一人が独断で重機関銃を用いて応戦し、追い払ってしまいます。
その後に現れた長尾景虎と接触を持ちますが、そこをさらに襲撃してきた黒田勢と景虎の兵との間で戦闘が発生します。
それに巻き込まれる形で2名の自衛官が殺害され、伊庭はジープに積んだ62式機関銃で応戦します。
それに呼応する形で隊員たちは戦闘を行い、黒田勢を殲滅しました。
景虎は伊庭を「同類」と呼び、ともに天下統一を目指そうと持ち掛けられます。
伊庭も戦国時代での生活を楽しんでいることに気付き、二人は友情を深めます。
他の隊員たちも各々が戦国時代を生きていきます。
現地の娘と恋に落ちたり、一家と交流を深めていく者、
タイムスリップを受け入れられずに昭和に残した婚約者に会うために無断で離隊して待ち合わせ場所に向かう者、
特に、伊庭に反感を持っていた矢野陸士長は、かつてクーデター計画を伊庭に頓挫させられたとして、非常に深い恨みを抱いていました。
矢野士長は数名の隊員を仲間に引き入れて、武器や物資を積み込んだ哨戒艇を奪い離隊します。
彼らは近隣の村を襲い、殺人や強奪、強姦を繰り返していました。
やがてヘリで追跡してきた伊庭三尉たちと戦闘になり、造反組は全員が死亡します。
伊庭は、景虎と天下を取ることで歴史を変え、「時」による昭和への帰還を発生させようと考え、部下たちもそれに従います。
景虎と伊庭は分かれて敵対勢力を突破し、京で落ち合う計画を立てて実行に移します。
伊庭は武田信玄の軍勢と戦闘になり、現代兵器を用いて優位に戦闘を進めます。
しかし、ヘリや装甲車、戦車の情報を予め得ていた武田軍は、その対策を十分に打っていたのです。
反面、伊庭たちは現代兵器の性能を過信し、戦略もクソもない力任せの戦いをしてしまいました。
ヘリは低空飛行した際に武士に乗り込まれてパイロットが殺害され、車両は偽装された落とし穴にハメられたり、タイヤ部に丸太を差し込まれて行動不能にさせられます。
結果的には伊庭が武田信玄を拳銃で射殺することで戦闘は終了しますが、すべての車両とヘリを失い、隊員にも多くの犠牲が出ました。
伊庭たちは逃げ延びるように廃寺に転がり込みます。
隊員の多くは戦国時代の恐ろしさを改めて実感し、ろくな武器装備もなくなってしまった以上、集積地に戻り昭和に戻れるようタイムスリップを待つべきと伊庭に進言します。
しかし、天下を取ることが全てになってしまった伊庭はその進言を拒否します。
当初は隊員の反論に対して理屈をこねていましたが「あなたは戦うのが好きなだけだ」という言葉に反応します。
「男なら天下を取りたいと思わないのか」
そういう伊庭に対して「家に帰って女房や子供に会いたいだけ」と答えた隊員に向けて拳銃を威嚇射撃する暴挙まで犯します。
そのころ、先行して京についていた景虎は、将軍・足利義明を始めとした重鎮から
「伊庭のような得体のしれない者を天下人とさせるわけにはいかない。また、伊庭と手を組む者も朝敵と見做さざるを得ない」と告げられます。
要するに、伊庭に着いて日本中を敵に回すか、幕府に着くか選べと宣告されたのです。
そうしている中で、伊庭たちが武田信玄との戦いの後に大半の戦力を失ったとの情報がもたらされ、将軍たちは自衛官たちの抹殺を細川藤孝に命じます。
そのやり取りを聞いた景虎は、自分が伊庭を討ち取ると宣言します。
そして、兵を引き連れて伊庭たちのもとに訪れます。
頼もしい援軍が来てくれたと喜びますが、景虎の表情と手にしたM1カービンを見て事情を察します。
景虎の兵は伊庭たちを取り囲み、弓を引きます。
自衛官たちも銃口を向けますが、多勢に無勢の状況です。
「儂は天下を取る」と伊庭は宣言し、刀を手に景虎へにじり寄りますが、直後に射殺されてしまいます。
その後は生き残りの隊員に向けても矢が放たれ、全員が反撃する間もなく殺害されました。
隊員たちの遺体は景虎によって弔われ、廃寺は火を放たれて炎上していくのでした。
原作と映画の違い
原作小説はあくまでもSF架空戦記としての性格が強く、現実的かつ戦略的に物語が進みます。
キャラクター個人の内面にフォーカスすることは殆どなく、天下統一を目指す自衛隊一派とそれを阻止する敵対勢力との戦いが描かれます。
圧倒的有利な現代火器を持ちながらも、弾薬や燃料の補給ができず次第に戦力が衰えていく様、そして何故タイムスリップが起きたのかというSF要素に重心を置いています。
半面、映画版は「SF時代劇・青春映画」として製作されています。
原作小説とは、一部のキャラクターやタイムスリップ先の時代が同じなだけで、かなり印象が変わる作品になっています。
タイムスリップに巻き込まれた自衛官たちの心情にフォーカスを当てており、各個人が各々のバックボーンを持ち行動します。
ある者は指揮官である伊庭三等陸尉に反感をもち部隊を離反し、ある者は現地住民と絆を築いて帰化、ある者は現代で待つ恋人に会うために地元に帰ろうとします。
伊庭三尉も戦国時代での戦いにまみれた生活に飲まれ、天下統一をするという目的のみのために半ば暴走をします。
主な違い
伊庭義明 三等陸尉
- 原作:自衛官をはじめ、景虎の軍勢や民間人の心をつかみ、ほぼ完全な統制下に置いて天下統一に向けて奔走していた。
- 映画:友情を育んだ景虎と根拠のない自信に基づいて天下統一を目指した。部下の掌握すら不完全であった。
長尾平三景虎
- 原作:伊庭たちの軍事力を目の当たりにして、自国(越後)の平定、ひいては天下統一も可能だと考え友好的な関係を築くが、のちに越後の政治に多忙になり、天下統一は自衛隊一派のみで行うことになる。
- 映画:伊庭を自身と「同類」と見做し、天下統一を共に成し遂げようと持ち掛ける。京を取るために伊庭たちとは別ルートで進撃するが、征夷大将軍から伊庭とつるむのであれば朝敵と見做すと弾劾され、友情と時流のはざまで苦悩する。
タイムスリップの原因
- 原作:「時」が自らのパラドックスを修正させるために、正常なタイムラインの世界から伊庭たち自衛官を呼び寄せて、歴史をあるべき姿に戻した。
- 映画:特に描かれず。
隊員の心情
- 原作:詳細は描かれないが、当初は昭和に戻れない現実に耐えられず鬱屈とした日々を送っていた。しかし時間をかけて戦国時代に馴染み、自発的な行動に至った。
- 映画:各人の心情を詳細に描き、多くが自分の思いに基づいて行動した。原作と違いタイムスリップしてから全滅するまでの時間が短く、結果として伊庭は隊員や自分自身を制御できず、半ばなし崩し的に行動していた。
結末
- 原作:強力な力を持ちつつも朝廷からの身分の割当も拒否した(支配下に入らなかった)ため、危険分子とみなされる。細川藤孝に伊庭らの抹殺を命じ、不意を打つことで伊庭の討伐に成功する。
- 映画:景虎が京への進撃まで伊庭と一緒に物語に参加する。小説と同様の理由で危険分子とみなされた伊庭の抹殺を命じられた細川藤孝を止め、自らが伊庭に引導を渡す。
装備の違い
大まかには、小銃、拳銃、対戦車火器、トラック、装甲車、ヘリ、哨戒艇と共通していますが、小説版はトラックだけでも十数両あり、持ち寄った燃料や物資の量も桁違いに多いです。
また、映画版では撮影に当たって自衛隊の協力が得られなかったため、多くの装備がレプリカや外観を似せた民生品、あるいは全く別の装備に置き換わっています。
原作
- 60式装甲車(APC):作中描写から察するに60式自走無反動砲と混同されている。本来は兵員装甲輸送車であり固有の武器は搭載していない。車載機銃のみ。
- 2トン半トラック:大量にあるのを生かして、戦国武士に運転訓練を施して物資や兵員の輸送に活用した。
- 19号型哨戒艇:タイムスリップの際にたまたま影響範囲内にいた海上自衛隊の船舶。
- KV-107 バートル:対空兵器のない戦国時代において「鉄の鳥」として圧倒的な戦力を誇った。
- 64式小銃:全隊員が所持し基本的な装備として活躍した。
- 64式対戦車誘導弾(MAT):敵城の天守を吹き飛ばしたり圧倒的な破壊力をデモンストレーション的に使用した。
映画
本作はストーリーラインから、自衛隊および防衛省(旧防衛庁)から撮影協力を得られませんでした。
そのため、以下の登場する装備品は民間仕様の物を改造したりレプリカを製作したりして対応されています。
- 61式戦車:原作で混同されていた60式装甲車の代用。
- M3A1装甲車:原作で混同されていた60式装甲車の代用。兵員輸送車として登場。
- 2トン半トラック:原作とは異なり1両のみ登場。
- 73式小型トラック:伊庭が車載の62式機関銃を使用。
- 19号型哨戒艇:矢野陸士長ら造反組が強奪した。制圧後に損傷したため遺体ごと爆破された。
- シコルスキー S-62:バートルの代わり。現実の陸自は採用していません。
- LAW:MATの代用、現実の自衛隊では採用されていません。
- 60mm迫撃砲:矢野陸士長が哨戒艇に乗せて強奪した。
- M2重機関銃:矢野陸士長が哨戒艇に乗せて強奪した。
- 62式機関銃:73式小型トラックの車載機銃。
- 64式小銃:複数の隊員が所持。
- M1カービン:一丁は伊庭から景虎にプレゼントされた。
- 11.4mm短機関銃(グリースガン):複数の隊員が所持。
- 11.4mm拳銃(M1911):伊庭が装備、使用した。
- 破片手榴弾:複数の隊員が所持。
まとめ
個人的には原作小説のほうが面白いというのが正直なところです。
映画版は、製作された時代の問題や尺の都合もあるのでしょうが、粗が目立ちます。
規律もクソもない格好や振る舞いをする自衛官という時点で受け入れにくいものがあります。
とはいえ、不本意なタイムスリップに巻き込まれ、自分の生活も家族も何もかもと突然切り離されてしまった自衛官の心情を察するに、映画版のほうも決して悪いわけではありません。
戦国自衛隊というベースを、小説とは別の視点で描いているとも言えます。
また、主演を務めた千葉真一や夏木勲の「男臭い魅力」も捨てがたいです。
昨今の主流とは異なるかもしれませんが、ああいう「男」を前に出したキャラクターや俳優からしか得られない栄養があるのも間違いありません。
ただ、「戦国自衛隊1549」はちょっとね…って感じではありますが
コメント
小説は大好きだったから映画でめちゃクチャクチャにされて不満だったけど、やっとまともな意見に逢えました。テーマを20字以内で書けと言われれば「ああ、俺が信長だったのかあ。」だと思うんですよ。それがない、テーマが無いんだよ。半村良先生は全く別物として気にされなかったのかもしれないですけど。私は角川春樹って、読解力皆無?と腹が立ちました。
コメントありがとうございます!
原作の戦国自衛隊が好きな自分としても映画の方向性はあなたと同じく受け入れ難いものがありました。
しかしよく見ていけば、半村良先生の戦国自衛隊にインスパイアを受けた「別の作品」と時で見るべきだと思い、戦国自衛隊の単純な映画化作品として見るものではないのだと気付きました。
そして、それはそれでアリだと思っています。